昨年から長男と二男が通う小学校のPTA副会長を務めています。そこでお誘いがあり、竹尾にある新潟よつば学園を見学してきました。かつての盲学校と聾学校が統合し、令和四年四月に開校した学校で、真新しく広々とした校舎で幼稚園児から高校生、そして大人も学んでいるということでした。
新潟よつば学園の教頭先生からご案内いただきましたが、統合前は別々に学んでいた学校の児童生徒がいっしょに過ごすことができるのかと、多くの懸念があったそうです。耳が聞こえない方のコミュニケーションの手段である手話を、目が見えない方は見ることができません。様々な困難があることは容易に想像がつきます。ですが実際に学校生活が始まると杞憂に終わったそうです。談話室で盲の生徒と聾の生徒がトランプやウノ等のカードゲームに興じ、緑色はどうやって伝えたらいいのかと考えたり、盲の生徒が手話を覚えたり、スマートフォンの音声を文字化するアプリを活用したりと、工夫してともに楽しい時間を過ごすのです。子どもたちのたくましさ、そして相手を思いやる心に感動しました。
振り返ると二男が一歳ほどでまだ話すことができない頃、三歳だった長男は、理解できると信じて、二男の目を見て一生懸命に話しかけていたことがありました。長女が生まれると、二男も長女に同じように接している様子を目にし、私はその姿に驚き、まだ小さいから説明してもわからないと思い込んでいた自分の考えが揺さぶられました。
地獄の「獄」は、けものへんと、犬という漢字が言という字を挟んでいます。これは動物が向かい合って吠えている状態を表し、お互いに言いたいことを言うだけで意思疎通ができていない状態だと、法話の中で聴いたことがあります。私は自分の言い分をぶつけるだけで、相手の言葉に耳を塞いでいることはないか、どうせわからないと初めからあきらめていることはないか。相手を思いやり、理解し合おうと努めているだろうか。新潟よつば学園の見学で自らを省みる、大事な機会をいただきました。
四月に二男が小学校に入学し、登校初日こそぐずったものの、元気に登校しています。若く溌溂とした女性が担任の先生で、ひらがなが苦手な二男をしっかりとみてくれています。そして長男は三年生となり、新たな担任の、私と同世代の先生は、給食の時間に児童の様子をみながらテストの丸付けをするほど忙しいのに、休み時間になればいっしょに鬼ごっこをして遊んでくれます。良い先生だねと妻と安心しておりました。自分が子どもの頃を振り返ると、宿題をたくさん出したり、居残りで勉強させたりすることが理由で、友達の間で嫌がられている先生がいたことを思い出します。今になって考えると、子どもたちにしっかりと勉強を理解してもらいたいという熱意がある方だったのかもしれません。
インドの僧侶、龍樹は有無の見を離れるという教えを伝えられました。有るという考え、また無いという考え、そのいずれも極端な見方であるというのです。それは物事を善か悪か、また〇か×か、何より誰かを良い人か悪い人か決めつけてしまう自分自身の在り方を見抜かれているように感じます。人というのは多面的で、完全な悪人がいないように完全な善人はいません。それなのにあの人は本当に素晴らしい人だ、あいつは問題が多いと、一側面だけで一方的な評価しているのが私です。有無の見を離れるとは、そのような極端な決めつけから離れて、その人、その事柄をそのままに受け止めて向き合うということだと思えてきます。有無、善悪、白黒を決めてしまえば、答えが出たようで気持ちがすっきりすることがあります。しかし学校のテストと違い私たちが直面するのはどちらが正しいとは言い切れないことばかり。それなのに一方に決めつけ、答えが出たことにするのでは、考えることを放棄しているだけです。思考停止せずに、向き合って考え続ける、それが有無の見が教えることではないでしょうか。
(ヨルダンから死海を挟んで臨むイスラエル。現地の人はOccupied Paletineと呼んだ)
「もうすぐご飯の時間だから先にお風呂に入っておいで。」そう言われると、子どもたちが渋々テレビを消して温かいお風呂に浸かり、上がると出来立ての晩ごはんを食べます。音楽を流しながらおしゃべりをして、食後にどんな番組を見るか話しています。ここから遠く離れ、どんな夜を過ごすのでしょうか、パレスチナのガザ地区に住む子どもたちは。イスラム組織ハマスを打倒するためと、イスラエルによる空爆が始まってからガザは医療も電気水道も不十分で崩壊状態。私の日常との落差に言葉を失います。
独身の頃、ヨルダンを一人で旅しました。死海を臨める場所に来ると、対岸に見える土地をヨルダン人は「Occupied Palestine(占領されたパレスチナ)」と呼び、決してイスラエルと言いませんでした。治安はとても良く、何人もの現地の方から「ウェルカム トゥ ヨルダン」と笑顔で話しかけられました。いっしょにバス停に居合わせただけなのにコーヒーをごちそうしてくれた年配男性もいました。その他にも旅した国の中ではモロッコ、インドネシア、エジプト、トルコ、UAEなどがイスラム教の国です。どの国にも女性や子ども、年配の方がいて、イスラム教徒も私たちと同じように、大切にすべき毎日を生きている。それが現地を歩いての実感でした。
浄土真宗では浄土を真の宗とする、つまり浄土が中心に据えられるべき世界であると受け止めています。その浄土とは誰もがひとりの人間として尊重される世界です。人種、言語、世代、性別、宗教、どんな違いがあっても浄土の教えの前では平等ないのちで、尊い存在として尊重される。それが浄土の教えであり、仏さまの願いなのです。そんな当たり前のようなことが、当たり前ではない場所がある。穏やかな夜を過ごして温かい布団で眠り、明日を迎えることが、当たり前ではない人がいる。ガザに生きる人々にいのちの尊厳を、そう願い、忘れずに、ガザの人々が当たり前を取り戻すことができるよう何かできることはないか、私が送る日々の中で考えていかなければなりません。
長女の通っている子ども園は、お迎えに行くと、その日の長女の様子を聞かせてくれます。そのときの保育士さんの表情や言葉の端々から、子どもへの愛情が感じられて、天気が良ければ欠かさず公園に連れて行き、どろんこ遊びやボディペインティングなど、家では後片付けの負担からできない遊びをさせてくれる、素晴らしい子ども園です。その園から先日、園長便りが届きました。そこには、小学校の先生への調査で、入学前に身に着けてほしいことで最も多かったのは「聴く態度」だったとありました。そして園長先生は話を聴くように指導することが必要なのではないとおっしゃいます。なぜかというと、聴く態度は、自分がじっくり話を聴いてもらってうれしいと感じたり、誰かの話を聴いて楽しいと感じたり、友達とたくさん言葉を交わし合ったりといった、肯定的な経験の蓄積を通じて徐々に培われるものだからとのことでした。改めて、良い子ども園に通わせてもらって幸せだと感じました。
先日、妻の実家の法事があり、子どもたちを連れてお参りしました。そこで妻の親戚から「こんにちは」と言われても挨拶をしない長男二男が、情けなく、親として恥ずかしいようで、ちゃんと返事をしなさいと叱るように言ってしまいました。私は三人の子どもたちに、しっかり挨拶をし、感謝の気持ちを伝えられる子になってほしい、そして仏さまに手を合わせる人になってほしいと考えています。ですが、それはきっと親から強いられて、できるようになるべきではないのでしょう。おはようと言って抱きしめてもらった、ありがとうとほほ笑まれて温かい気持ちになった、家族そろってお参りをした、そんな経験が積み重なり、自発的にできるようになるのだと思います。叱られる恐怖心から親の言うことを聞くのではなく、うれしかった体験、幸せな経験、大切な思い出の中から学び、自主的に考えて行動できる、そういう人に育ってくれたら、親としてはうれしい限りです。叱らずに、前向きな声かけをする、なかなか私には難しいことです。悩んで、反省して、学んで、また失敗して、三人の子を育てています。
てらこや食堂の調理は当日の十七時から始まります。調理チーフが考えたメニューを作るために前半担当のスタッフがお米を研ぎ、野菜を切って、炒めたり煮込んだり。そして十九時のいただきますの前が忙しさのピーク。温かいご飯を食べてもらえるように仕上げをして、盛り付け配膳。食事中も小さい子がこぼしたお茶を拭いたり、おかわりの対応をしたりとなかなかゆっくり食事とはいきません。ごちそうさまをすると参加者が運んでくれたお皿を片付けて洗い物。後半担当のスタッフが全て後片付けを終えるのは二十時くらいになります。私は調理関連にはほとんど携わらず、前日までに調理スタッフや参加者の人数を確認したり、ご寄付を受け取る調整やお礼状を送付したりというのが仕事です。調理スタッフの方が一生懸命取り組んでくださっていることはもちろん、私もてらこや食堂開催のために力を尽くしています。
それは容易なことではありませんが、てらこや食堂に来られる参加者、子どもたちの、玄関を入るときのワクワクした表情、友達同士で隣り合って座り、楽しそうに食べる後ろ姿、おかわりをするときのどこか得意そうな顔、すっかり暗記した食前・食後の言葉の唱和、食べ終わっても楽しくてなかなか帰ろうとしない様子。そして親御さんが子どもたちへ向ける穏やかな眼差し。そのひとつひとつが本当にうれしく、てらこや食堂があって良かったと、苦労が報われます。
子どもたちのため、地域のためと開催しているてらこや食堂ですが、そのために私を含めたスタッフができることしようと行動を起こして継続できるのは、それが自分にとっての喜びであり、幸せを感じるからではないでしょうか。親鸞聖人がおつくりになった和讃に「自利利他円満」という言葉があります。誰かのために何かをすること(利他)が自分のため(自利)にもなって満たされているという意味だと受け止めています。自分が望んですることが、誰かの喜び、幸せにつながっているとしたら、それは尊いことでしょう。てらこや食堂のボランティアスタッフとしてご協力いただける方は私にお声かけください。
年に何度か、頭痛に苦しむことがあります。薬を飲むと痛みは薄れるのですが、数日続くことも珍しくありません。ある朝、目が覚めると頭が痛かった私は、薬を飲んで月参りに出かけ、伺ったお宅で正信偈をお勤めしてから、頭痛薬を飲んできたことを話しました。すると御門徒さんが、「私も若いころから頭痛持ちで、今でもときどきあります。薬を飲めばスーッとするのですが」とおっしゃいました。それからしばらくおしゃべりをして、次のお宅に向かいました。すると頭痛の痛みは変わらないはずなのに、辛さが和らいでいることに気づきました。それは自分の気持ちを理解してくれる人がいると知ったこと、独りぼっちではないのだと気付いたこと、つまり心に寄り添ってもらったからなのだと思います。
気候変動の影響もあってか、毎年様々な災害があります。金宝寺では東日本大震災から、全国各地の被災地の品を、年始とお盆にお参りにいらっしゃった方への粗品として、用意してきました。地域のお店の売り上げに貢献できればという思いもありますが、それ以上に、甚大な被害を生んだ災害で大変な体験をされた方のことを思い、できるだけ寄り添いたいと考えているからです。ボランティアのために現地へ赴いたり、定期的に寄付をしたりできればいいのですが、簡単なことではありません。様々な苦しみがあったであろう被災者を支援したいという気持ちはあっても、時が経つと忘れてしまいそうになることすらあります。粗品とする被災地の品を考えることは私にとって、災害を振り返り、そこに生きる方のことを想像する大切な機会です。家族で相談し、今年の年始は昨夏、豪雨による水害に見舞われた村上市の蕎麦を用意しました。地元の藻塩を練り込んだおいしい蕎麦です。金宝寺へ年始に来てくださる方と、村上のこと、そこに住む方のことをお話ししながらお渡しする、それもひとつの支援だと思っています。
「夫が亡くなりました」という親友のお連れ合いからの電話を切った後も、現実が呑み込めず、子どもと作っていたブロックを組み立て続けました。しばらくすると、もう二度と、話すことができないという悲しさ、孤独感に涙が込み上げてきました。京都で過ごした大学時代、お酒を飲んで若者らしい話をしたり、バイクであちこち出かけたり、青春をともに過ごした親友が、夏の終わりに亡くなりました。中学生、小学生、幼稚園児の三人の子どもを残して。バイク事故でした。
大阪で執り行われた通夜にお参りしました。子どもたち、お連れ合い、ご両親、ご親戚、縁のあった方々のすすり泣く声が聞こえる通夜会場に、掲げられた親友の遺影は、いつものように微笑んでいました。最後に、棺の中の親友の顔を見せてもらいました。「父親が必要な三人の子どもを残して死んでしまうなんて。もっと二人でビールを飲んだり、家族ぐるみ遊んだりしたかったのにいなくなってしまうなんて。」そんな悲しみと憤りから、それまで「この馬鹿野郎」くらい言いたい気持ちがありました。しかし、まるで眠っているかのような顔を前にすると涙が止まりませんでした。そして私の口から出たのは「ありがとう。ありがとう。また会おうな。」という言葉でした。
お経の中に「俱会一処(くえいっしょ)」(ともに一つの所で出あう)という言葉があります。私たちはこの世でのいのちを終えると、浄土に往生して仏となり、そこで出あうのだという教えです。死後の世界で再会できるということをイメージさせますが、大事なことは、今ここで、浄土を生きること。つまり、すべてのいのちを、ともに浄土を生きてゆく尊い存在として受け止めて、日々を歩んでゆくことだと学んできました。そのことを理解していても、私には、この世でのいのちを終えたらおしまいではない、浄土という世界があるということは、親友の死という悲嘆の中で、大きな救いでした。また会うことができる日まで、自分の人生を大切に生きてゆこうと思えたのです。
二年間の休止を経て、四月からてらこや食堂が再開しました。子どもとスタッフ合わせて百人もの参加があった以前のようにはできませんが、本堂で宿題やテスト勉強をする、無料塾TERAKOYAの利用者と、そのご家族に限定して食事を提供しています。高校生、中学生と小学生の食べ盛りの子どもたちが、調理スタッフが愛情をこめて作った栄養満点の料理を、もりもり食べるのは、見ていて爽快です。
コロナ禍にあって多くの子ども食堂が休止に追い込まれました。そんな状況下で、お弁当配布や食材提供(フードパントリー)に形を変えて再開した所もあります。しかし金宝寺の子ども食堂は参加者が集い、みんながそろっていただきますをしてご飯を食べ、交流することを大切にしてきました。そのためスタッフによる運営委員会を持って話し合い、みんなで食事をすることができない状況では、開催せずにいました。コロナ禍が長期化する状況で、いつになったら再開できるのかという不安も、焦りもありました。今では感染が落ち着き、新型コロナウィルスへの恐怖も少しずつ和らいで、再び子どもたちに出来立てのおいしい食事を食べてもらえる日を迎えられたことを、本当にうれしく思っています。
無料塾では黙々と問題集を解く子もいれば、手ぶらで来てマンガを読んでいる子、テスト勉強で疲れたからとソファーで居眠りをする子もいます。学校や塾、部活、家庭は楽しく、充実した時を過ごすこともあれば、苦労し、悩みを抱くこともきっとあるでしょう。そこから離れて、思い思いに過ごし、友達とおしゃべりして、おいしいご飯を食べ、スタッフに声をかけられ、気分転換して明日からの一日を過ごしていこうと思う。そしてその様子を見たスタッフも元気になる。月に二回の、てらこや食堂と無料塾TERAKOYAは、そんな普段の生活の場から離れて一息つける、地域の居場所でありたいと考えています。それは良いことがあったときも、辛いことがあったときも足を運び、話し、食べて、安らぐ、そんなお寺としての本来の、そしてとても大事な役割を果たせているのではないかと感じています。
新型コロナウィルスが出現して約二年になります。今でも外出すること、特に人が集まる場所へ足を運ぶことに、注意を払っているとおっしゃる方は少なくありません。お寺の聞法会にお参りすることを、躊躇するという方もいらっしゃることと思います。金宝寺ではコロナ禍にあっても、毎月三日の定例布教や彼岸会、報恩講と、仏教のお話に耳を傾ける聞法会を催してきました。お斎は中止し、席の間隔を空けていますが、不安が全て消え去るということはありません。
「どうしたらお参りしていただけるだろうか。やはり時代に合った、聞法会のネット中継をすべきだろうか。しかし視聴してくださる方はいらっしゃるだろうか」と、一歩踏み出せずにいました。そこに「お寺まで足を運ぶのは難しいから、スマホで見られるようにしてほしい」と、月参りでお邪魔したお宅の方がおっしゃったのです。それならばと一念発起し、ネット配信の方法を調べ、二〇二一年九月から、金宝寺で開催される聞法会のYouTube(ユーチューブ)での中継を始めました。ご視聴いただいた方からは、映像もキレイで声もしっかり聞こえると感想をいただき、安心しました。全くの素人である私が、家庭用パソコンで配信しているため、電波が不安定になったり、途中で途切れたりと、ご不便をおかけしたこともありましたが、継続しているうちに少しずつ安定してきております。
仏さまの教えを聞く道場として、お寺は相続されてきました。コロナ禍で不安があること、仕事が忙しいこと、遠方に住んでいること等で、お参りすることが困難であっても、ネットを活用して、仏教の教えに触れていただければと考えております。Youtubeの金宝寺チャンネルを登録していただければ、どなたでも聞法会をご覧いただけます。ぜひご視聴ください。もちろん金宝寺まで実際に足を運んでのお参りも本当にありがたいことです。
お盆を数日後に控えた盛夏の頃、妻の祖父が亡くなりました。私の子どもたちからすると曾祖父にあたります。九十一歳と高齢ではありましたが、その日の朝まで畑仕事をしていた元気な方でした。通夜、葬儀を勤め、家族みんなで毎週の壇勤めにお参りしました。
葬儀から二週間ほど経ったある夜、眠りに入る間際に、五歳の長男が私に何かを囁きました。はっきりと聞こえなかったため、聞き直すと「死なないでね」と言うのです。私は涙が溢れてきました。その翌日にはお風呂で「ながーく生きてね」と言ってくれました。おそらく長男はテレビ等で「死ぬ」ということを知っていたと思います。ですが頻繁に会っていた人の死を経験するのは初めてのことでした。毎週の壇勤めで、いつもそこにいた曾祖父がいない様子に、死ぬということは、もう二度とおしゃべりをすることも、遊ぶことも、会うこともできなくなることなのだと理解したのでしょう。
幼い子どもにとって親がいなくなるということはどれほど不安なことでしょうか。ですが長男は、私が必ず死を迎える人だと気付いたのです。その長男の気持ちを想像し、「死にたくない」と心の底から思いました。
三歳の二男は、葬儀の数日後、曾祖父が話題になっているときに「楽しかったね」と言うので、何のことか聞くと、死の数週間前に畑でいっしょに芋掘りをしたことを思い出していたのです。
曾祖父の死、そして長男と二男の言葉から気付かされたことがあります。私は死に向かって生きる者であり、おそらくは子どもたちに見送られ、思い出の中の存在となること。その子どもたちに私は何を伝えてゆけるでしょうか。必ず別れは訪れるけれど、できる限りの愛情を持って向き合おうと改めて決心しました。死とは、失うだけではなく、どんなことを大切に生きてゆくのかを教え、与えることでもあったのです。
新潟市には現在、三〇か所以上の子ども食堂があります。そのうち半分以上が感染対策をとって食事を提供したり、お弁当配布に形態を変えたりして再開しています。ですが、金宝寺で開催していた子ども食堂、てらこや食堂は休止中です。それはご飯を食べにいらっしゃる多くの方が、食事をとることだけが目的なのではなく、友達とおしゃべりを楽しみにしていたり、子どもを遊ばせてあげたいと思っていたりと、交流の場として足を運んでおられるからです。困難な環境にある方に、食事を提供するという目的が第一であれば、多少無理をしてでも開催することを考えたかもしれません。ですが、地域の居場所、触れ合いの場として、てらこや食堂が運営されてきたことを考えると、食事中の会話は避け、ソーシャルディスタンスを保つことが求められる現状では再開しないということを、スタッフで話し合って決めました。多くの方に栄養たっぷりのおいしいご飯を食べてほしい、喜んでいる子どもたちの笑顔が見たい、という願いを持つ私たちには、苦渋の決断です。
再開したいけどできない。この状況で私たちにできることは何か。私たちは相談して、ひとり親家庭に食料を届ける取り組みを始めたフードバンクに昨年、十万円を寄付しました。もともと経済的に恵まれている方が多いわけではないひとり親家庭にとって、コロナ禍のダメージは大きいようです。その支援を行うフードバンクも資金が潤沢にあるわけではなく、苦境にあると知りました。そこで私たちは今年もう一度、同額の寄付を決めました。
寄付の出どころは、てらこや食堂の運営資金の積立金です。それは調理スタッフの方が工夫して、百食を三千円の食材費で作ったこと。子どもたちに食べてもらってくださいと野菜やお米など、様々な食材をいただいたこと。応援していますと寄付をいただいたこと。そんなたくさんの温かい気持ちが積み重なったものなのです。
たくさんの方に支えられて、てらこや食堂は続いてきました。今は休止中ですが、必ず再開したいと思っています。それまでただ待つのではなく、誰かを支えることができるよう、私たちにできることを、これからも考えていきます。
亡くなった夫の七回忌があるので、そのときに永代経を納めたいのですがと、月参りで伺ったお宅でご相談いただきました。お聞きするとコロナ禍にあって国から受け取った十万円の給付金を全額、永代経として納めてくださるということでした。「私は年金をいただいているから少しずつ積み立てて、孫とひ孫にはほしいものを買ってあげることができます。そこで今回の給付金を何か自分が大切だと思うことのために使いたいと思ったのです。」とおっしゃるのです。私はそのお気持ちに感動すると同時に、自分を恥じました。金宝寺もコロナウィルスの影響を受けてはいますが、私自身の毎月の給料は変わらず、十万円という給付金はラッキーな臨時収入と思っていました。妻と相談し、子どもたちの分を含めて基本的には全額生活費に充てて、二万円ずつお小遣いとして自由に使おうと決め、私はお取り寄せグルメを満喫する予定でした。
永代経とは、お亡くなりになった方のために永代にわたってお経をあげて供養するというイメージがあるかもしれません。しかしお経というのはお釈迦さまの説法であり、それは今を生きる私たちに向けられているのです。ではなぜ永代経をあげるのかというと、それは私たちが仏の教えに出あうため、そして未来を生きる子どもたち、そのまた先の世代が仏教の教えに触れることができるようにするためなのではないかと思います。皆さまからお納めいただいた永代経は、金宝寺の設備の更新や聞法会等の様々な活動に充てさせていただいておりますが、それはつまりお寺の護持、教法の宣布のためであり、広く仏教の教えを伝えるためなのです。
仏の教えをいただき、生きてゆく僧侶という立場でありながら、私は二万円を自らの欲を満たすためだけに費やそうとしていたのです。永代経を納めたいというその方は仏さまだと思いました。その言葉に私は照らし出され、教えられて、昔ボランティアをしていた施設に寄付することを決めました。
ちょっと言い過ぎてしまった、冷たい言い方をしてしまったと思うことが、私には頻繁にあります。そんなとき、悪かったなと思いながらも次第に忘れてしまい、自分の言動を省みることはほとんどありません。
先日、月参りでお邪魔したあるお宅に、小学六年生のお孫さんがいらっしゃいます。金宝寺の英会話教室やてらこや食堂に参加し、三条別院の「こどもほうしだん」というお泊り会に参加してくれたこともありました。お寺や仏さまに親しみを抱いてくれていて、ひとりでも正信偈をお勤めすることができます。あるとき、このお孫さんが家族から叱られたそうです。すると誰に言われたわけでもないのに、夜も遅くに仏間へ行き、正信偈をお勤めしたそうです。きっと反省したのだと思いますとご家族の方はおっしゃっていました。お勤めを終えて戻ってきたときには「よくお勤めしたね、えらかったね」と伝えたそうです。
お仏壇は家に仏さまがいらっしゃる場所であり、お内仏という言い方をします。そこでお参りをするというのは先祖供養のためではなく、仏さまの教えと向き合い、自分の在り方を振り返るためです。また「南無阿弥陀仏」と称えるお念仏は「ありがとうございます」そして「ごめんなさい」という意味があります。自分を支えてくれる人がいて、今こうしてここに生を受けていることへの感謝の「ありがとう」。そして仏さまや家族、まわりの人が自分のことを大切に思っているのに、そのことに気付けず、時にないがしろにしてしまうことへの「ごめんなさい」。小学六年生のこのお孫さんはまさにそういうお念仏を称えたのではないでしょうか。お内仏を自分と向き合う場と受け止めて、生活に根付いていることに感動しました。反省しなければならないことをいつの間にか忘れ、なかったことにするのではなく、省みる場を持って生きていくのだと、教えられました。
「私もそろそろ法名をいただきたいと思っているんです。」
月参りの際に、正信偈のお勤めを終えてお茶をいただいていると、八十代女性の御門徒さんがおっしゃいました。私はどうしてそう思われたのか尋ねました。
「亡くなってから名づけられても自分で名前がわかりませんから。それに法名をいただくことが心の安らぎになるように感じます。」
法名とは仏の教えを聞いて生きてゆく者の名のりです。葬儀の際にいただく名という印象があるかもしれませんが、本当は生きている間に自らの意思で帰敬式を受式し、いただくのが法名です。
私たちは誰もが名前を持っています。私自身の名前は朝倉奏であり、長男は久遠、二男は銀弥です。私の両親は願いを持って奏と名づけてくれましたし、私も子どもたちには願いや意味をこめて名前をつけました。その家族や様々な縁がある方の思いがこもった自らの名前に対し、法名は仏さまの願いをいただいて生きる者としての名前なのです。仏さまの願いとは私たち一人ひとりがしっかりと人生の意味を見出し、空しくない人生を歩んでほしい、自分が大切ないのちを生きていると自覚してほしいということではないでしょうか。その願いを伝えているのが仏教であり、その教えを聞くことを大切に生きてゆくと表明するのが帰敬式なのです。
先の女性のご要望に応えて金宝寺では初めてとなる帰敬式を三月三日に開催します。この機会に法名をいただきたいとお思いの方はぜひお申し込みください。三月三日は新年の金宝寺の行事が始まる、定例始めの日でもあります。法話講師は金宝寺住職で、お昼にはおいしい手作りのお斎もあります。帰敬式を受式して法名をいただきたい方、帰敬式をご覧になりたい方、定例布教にお参りしたい方、どなたもお越しください。法名については住職に考えてもらうことも、御一緒に相談して決めることもできます。詳細は同封されている金宝寺行事始めのご案内と、帰敬式のご案内をご覧ください。
沖縄の米軍基地反対運動に取り組む奥間政則さんの講演をお聞きしました。現在、新しい米軍基地を建設するために埋め立てが進められている辺野古は、新聞やテレビで報道される軟弱地盤の問題の他に、アメリカであれば基地建設を認められない活断層があるそうです。辺野古は基地の適地などではなく、建設してはいけない場所なのだと教えていただきました。そして基地建設に反対する取り組みは、デモや座り込みだけではなく、地質学者が活断層の存在を指摘したり、奥間さんのような土木技術者が工事の問題点を追及したりと、様々な専門的な知識を持つ方がそれぞれの立場から声をあげ、行動しているそうです。
今回の講演で忘れられないのは一枚の白黒写真です。基地に抗議するために集まった市民を排除するため、動員された機動隊の一人の男性。年齢は私より少し上の40歳くらいでしょうか。その機動隊員が涙を拭おうと目元に指をあてている写真です。高江ヘリパッドを建設する際に、全国から動員された機動隊が地元で訴訟になるケースがあったため、今は動員される機動隊は沖縄の方だと奥間さんはおっしゃいました。つまり沖縄の自然を守ろう、暮らしを守ろうと集まった市民と、平和を守ろう、沖縄の市民の生活を守ろうと機動隊になった隊員が対立させられているのです。涙を流している機動隊員の方は何を考えていたのでしょうか。そこに集まった市民の思いへの共感、自分の両親や祖父母と同世代の方を力づくで排除する悲しみ、その場に動員した権力への怒り、無関心な人への訴え。その写真は沖縄の方の苦しみを映し出し、助けてくれと叫んでいるようでした。
四月から長男が幼稚園に通うようになり、朝のお迎えバスに乗った姿を見送ることがひとつの楽しみになりました。ですがその時間までにバス乗り場に行かなくてはならず、間に合わなかったらどうしようと気をもむ日もあります。長男の寝起きが毎日良いわけではなく、朝ごはんもスムーズに食べてくれる日ばかりではありません。先日も八時頃まで寝ていたところを起こすと、ご飯とおみそ汁を前にして椅子に座り身体を丸めてぐずり続けました。「どうして泣いているの」「ご飯を食べないの」と聞いても答えず、バスの時間が近付いてくる中、そんなことをしても食べるわけはないとわかっていながら、焦りと苛立ちからご飯をスプーンに乗せて口元に運んでみましたが、長男は頑なになるばかり。腹が立ち「もう朝ごはんを食べずにお腹を空かせたままで幼稚園に行けばいい」と考えていました。それなのに妻が「ママのところにおいで」と言うと素直に妻の膝の上に乗り、しばらくするとご飯を食べ、それからすぐに笑顔を見せておしゃべりを始めました。
子育てをしているとたくさんのことを考えさせてもらいます。不満や、悩み、悲しみのように、言葉にできない思いを抱えている人を前にしたらどうするべきなのでしょう。「なぜ」「どうして」と言葉をかけることだけが正解ではないのかもしれません。何かを抱えたままのその人を、すっぽりと受け止めることが必要な場合もあるのだと思います。感情に振り回され、私にはそれができていなかったと、妻と子どもが気付かせてくれました。『正信偈』にお名前が出る七高僧のひとり、善導大師は「経教はこれを喩うるに鏡のごとし」とおっしゃっています。それは仏さまの教えは鏡のように私の姿を映してくれるということでしょう。妻と子どもによって自らのあり様を映された私は、その姿を恥じ、変わりたいと強く願いました。
「もののけ姫」というジブリ映画があります。先日テレビで放送された際に録画をしたら、長男の久遠が気に入って、何度も繰り返し見ています。多くの名シーン、名セリフがあり、子どもも大人も楽しめる素晴らしい映画です。その登場人物でハンセン病と思われる、体中を包帯でグルグル巻きにした皮膚病患者がいます。大勢の患者が登場しますが、その一人に周りから「長(おさ)」と呼ばれる寝たきりのお年寄りがいます。その方が主人公の一人であるアシタカに「生きることはまことに苦しくつらい。世を呪い人を呪い、それでも生きたい」と包帯を涙で湿らせて、絞り出すように伝えるシーンは、私が好きな場面の一つです。社会の誤解と、国の隔離政策によって凄惨な差別を受けてきたハンセン病患者の現実が、映画で表現されているのでしょう。自らを虐げる社会を恨み、拒絶する人々を憎み、病で苦しんで年を重ね身体は不自由になっている。しかしそれでも生きたいというその言葉に、私は暗い海の底に沈んでいた、ずっと探している大切なものの影を見るように感じるのです。それは私たちが持つ「生きたい」という根源的な願いに気付かされるからなのかもしれません。孤独であっても、何かを生産したり仕事をしたりすることができなくなっても、「生きたい」と思い、それを口にしてもいいのだと勇気づけられているように感じるのです。生きることがつらくとも、苦しくともこの人生を生きたい。そんないのちを生きていると教えてくれているようです。思い通りにならないことがあると孤独を感じ、抱えているものを投げ出したくなる私に、「長」の言葉は浸み込んでゆきます。
子どもが親に虐待されるニュースが世間を騒がせることがあります。言うことを聞かないからと暴力を振るったり、どこかに閉じ込めたり、食事を与えなかったり。その背景のひとつは、子どもを自分の思い通りにしたいという親の傲慢でしょう。私自身も我が子がご飯を食べないときや、後片付けをしないときには、どうして言う通りにしてくれないのかと腹が立つことが頻繁にあります。ですが子どもは意思を持ったひとりの人間であり、決して思い通りにはならないのです。もしも子どもが私の言う通りにして、好き嫌いをせずに何でも食べ、時間になったらおとなしくお風呂に入り、テレビは決まった時間だけ見て、寝室に行けばすぐに布団に入って朝まで寝てくれるとしたら、それはきっと親の力で抑圧され、自分の意思を殻に閉じ込めているだけなのでしょう。スーパーでアンパンマンのジュースがほしいと駄々をこね、就寝時間になってもベッドで飛び跳ねる、そんな自分の感情に素直に生きているのが子ども本来の姿のように感じます。
子どもには自分の意思があり、決して親の思い通りにはならない。それは当たり前のことなのに、言うことを聞かないと腹が立つ。その憤りを抑えられない場合に虐待に至ることがあるのでしょう。そのニュースを他人事とせずに、子どもを思い通りにしたいと考えてしまう私の思考を省みなければなりません。子どもは親の所有物ではないのです。ご飯を食べさせたりおむつを替えたり、身の回りの世話をしていると、私がいないと生きていけない存在、まるで自分自身の一部であるような勘違いしてしまいそうになります。私のもとに生まれてきてくれた大切な子ども、そして一人の独立した人格を持つ尊い人間。そのことは忘れてはいけないことです。
昨年五月にてらこや食堂を立ち上げてから一年が経ちました。来てくれる人がいらっしゃるのか、不安を感じながらのスタートでしたが、今では百人以上の方が足を運んでくださる時もあり、大盛況となっています。大勢の参加を私は心から喜んでいますが、百人分のご飯を作るスタッフの方々の御苦労は相当なものでしょう。それなのに、楽しそうにおしゃべりしながら調理しておられる姿に感服し、ありがたく思っています。
私はてらこや食堂が円滑に運営されるように後方サポートを心がけています。会計や、助成金申請、事前準備と最後の後始末等、様々な雑務を引き受けています。苦労もありますが、てらこや食堂で過ごす時間はとても楽しく、私の生活の中で大きな喜びのひとつとなっています。
「みんなで食べると子どもが苦手なものも食べてくれます。」「今日は転校生の子といっしょに来たよ」「家では料理する余裕がないので、親子でいろんなご飯が食べられて助かります」そんな参加者の声を耳にすると、とてもうれしく、参加者の方々がこの場を必要としてくださっていることが私のやりがいとなっていると気付かされます。食後は後片付けを手伝ったり、走り回ったり、カルタをしておしゃべりしたりと、子どもたちは思い思いに過ごしています。その様子に、金寶寺にかけがえのない場が開かれている、大事な居場所になっていると私は感じるのです。お寺は誰もが尊い存在で、この世に必要でない人はいないと教える仏教を伝える場です。てらこや食堂でお腹が満たされて、心も満たされる。食を通して自分が大切にされる存在だと感じられる居場所でありたいと願っています。
出産予定日だった昨年の十一月十九日の午後十時半頃に陣痛が始まり、母に長男を任せて夫婦で病院に行くと、順調にお産が進み、日をまたいだ十一月二〇日の午前〇時半に男の子が誕生しました。元気に生まれてくれた子どもにも、約二時間のスピード出産ではあっても、大変な思いをしてくれた妻にも、心から感謝しております。
陣痛が始まった十九日はこの冬の初雪の日であり、誕生日となった二〇日も朝から雪が舞っていました。雪に関連した名前にしようと妻と話し合い、雪という意味があり、銀世界というように表現する「銀」に、阿弥陀さまの「弥」をつなげて銀弥(ぎんや)と名づけました。空から雪が舞い降りるように、私たち家族のもとに生まれて来てくれた子です。このひとつの命を、私たち家族への贈りものとして大切に育んでいきたいと思っています。
銀弥の誕生から一ヶ月と少しが経ちました。長男の久遠がやきもちを焼いたり、二人を順番にお風呂に入れるのに手間取ったり、夜中に代わりばんこに泣き始めたりと、慌ただしく過ごす毎日です。そんな日々を、家族が増えた喜びと、これからの人生を共に歩んでゆける幸せを、確かに受け止めてゆこうと決心しています。