四月に二男が小学校に入学し、登校初日こそぐずったものの、元気に登校しています。若く溌溂とした女性が担任の先生で、ひらがなが苦手な二男をしっかりとみてくれています。そして長男は三年生となり、新たな担任の、私と同世代の先生は、給食の時間に児童の様子をみながらテストの丸付けをするほど忙しいのに、休み時間になればいっしょに鬼ごっこをして遊んでくれます。良い先生だねと妻と安心しておりました。自分が子どもの頃を振り返ると、宿題をたくさん出したり、居残りで勉強させたりすることが理由で、友達の間で嫌がられている先生がいたことを思い出します。今になって考えると、子どもたちにしっかりと勉強を理解してもらいたいという熱意がある方だったのかもしれません。
インドの僧侶、龍樹は有無の見を離れるという教えを伝えられました。有るという考え、また無いという考え、そのいずれも極端な見方であるというのです。それは物事を善か悪か、また〇か×か、何より誰かを良い人か悪い人か決めつけてしまう自分自身の在り方を見抜かれているように感じます。人というのは多面的で、完全な悪人がいないように完全な善人はいません。それなのにあの人は本当に素晴らしい人だ、あいつは問題が多いと、一側面だけで一方的な評価しているのが私です。有無の見を離れるとは、そのような極端な決めつけから離れて、その人、その事柄をそのままに受け止めて向き合うということだと思えてきます。有無、善悪、白黒を決めてしまえば、答えが出たようで気持ちがすっきりすることがあります。しかし学校のテストと違い私たちが直面するのはどちらが正しいとは言い切れないことばかり。それなのに一方に決めつけ、答えが出たことにするのでは、考えることを放棄しているだけです。思考停止せずに、向き合って考え続ける、それが有無の見が教えることではないでしょうか。
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